· 

戦前の沖縄 珈琲の歴史

 4月17日、沖縄 SV 株式会社(本社:沖縄県豊見城市、代表取締役:高原直泰、以下「沖縄 SV」)とネスレ日本株式会社(本社: 兵庫県神戸市、代表取締役社長 兼CEO :高岡浩三、以下「ネスレ」)は、沖縄県名護市、琉球大学と連携し、沖縄で初となる大規模な国産コーヒーの栽培を目指す「沖縄コーヒープロジェクト」を開始するというニュースが流れた。

 

沖縄県の一次産業における問題解決

 

 「沖縄コーヒープロジェクト」とは、沖縄SVとネスレ両者が、沖縄県内の耕作放棄地などを活用し、沖縄を拠点とする国産コーヒー豆の栽培を本格的に開始することで、沖縄県の一次産業における問題解決を目指すというもの。加えて沖縄県の気候・土壌に精通する琉球大学は、農学的見地からコーヒー栽培を行う上で必要となるノウハウ・情報の提供を行う。これらの活動により沖縄県では農業就業者の高齢化や後継者不足、耕作放棄地への対応が図られる。

 

 また限定された量にとどまってきた沖縄県産のコーヒー豆の生産量を拡大することで、沖縄県産のコーヒー豆やコーヒー製品を新たな特産品とするとともに、環境に配慮した沖縄の新たな観光資源としてサッカー場を併設したコーヒー農園を将来的に開発するなど、コーヒー豆の栽培を通じて新たな産業を育成することも目指すというものだ。

 

県産コーヒー栽培とその歴史

 

 沖縄県は、「コーヒーベルト」と呼ばれる赤道をはさんだ北緯・南緯25度の間の場所からは外れている。しかし、同地は亜熱帯地域に属しており、更に温暖な海洋性気候である。このためコーヒー生産が可能となり、国産のコーヒー豆の栽培が行われている。

 

 沖縄県におけるコーヒー栽培の歴史をひもとくと、2つの説がある。1939年(昭和14)3月に刊行された『第八回 造林研究会記録』(熊本営林局)において当時の沖縄営林署技手であった穐山隆馬氏によると、1891年(明治24)頃に遡るとある。国頭(くにがみ)郡の農会長、朝武士干城(あさぶしかんじょう)氏により、今帰仁村と本部村の境界付近の場所にあった当時の農会の試験場に栽培を開始した。種苗は当時やはりコーヒー栽培を行っていた小笠原より取り寄せたものだった。

 

 「農会」とは、大辞林によると1899年(明治32)農会法に基づいて農事の改良発達を目的として設けられた地主・農民の団体。1943年(昭和18)産業組合と合併して農業会となる、とある。

 

 朝武士干城(あさぶしかんじょう)氏は、『沖縄県公文書館だより 第31号』によると、青森県出身で、明治28年、奈良原繁知事の県政下、 国頭役所所長に就任し、明治29年国頭郡長となった。明治31年には首里区 長兼中頭郡長として約5年間勤めている。

 

 一方、1910年(明治43)に田代安定氏より著された『恒春種畜場事業報告』(台湾総督府殖産局)によると、「明治二十年頃農商務省より宮崎県下沃地に熱帯植物試験場を創設し同省技師田中節三郎氏を以て主任に充てコーヒー各種経済植物を移植し仝二十四年頃廃物となりてコーヒー木等は沖縄県八重山島、其の他に転植し田中技師其の事を擔當す 沖縄県諸島は是に前後して内地人某等のコーヒー栽培に従事するものあり、而して人代り時代移り植物は尚存在するも大成するに至らずして止めたり、右によると沖縄県下には明治二十年代にジャバからの種類が入ったものと思われます」とある。 農商務省とは、1881年(明治14)に設立され、明治政府の殖産興業政策の一翼を担った国家機関である。田代安定(1857〜1928)氏は、鹿児島県出身の植物学者である。1895年に台湾総督府民政局への赴任を明治政府から命じられ、30年間台湾に駐在した。

 

 また田代は、八重山諸島や南西諸島の動植物や地域住民の習慣やならわし等も調査し、沖縄の結縄文字である藁算についての研究を初めて行なった。そういった意味からは、民俗学者でもある。

 

木村珈琲店によるコーヒー栽培

 

 さらに戦前、企業が相当規模でコーヒーの栽培を行った記録もある。昭和10年4月、コーヒーの卸商であった木村珈琲店(現、キーコーヒー)によって着手された。場所は、国頭郡東村字慶佐次(当時)に「慶佐次珈琲栽培農場」という名前で、栽培された。栽培種子は、前述した今帰仁村の試験場より採取したアラビア種のモカロングと記録は残されている。

 

 栽培面積は、廿町歩(にじゅうちょうぶ、約20ヘクタール)であった。苗木も養成しており、6万本の苗木があったとされる。

 

柴田文治氏の来遊がきっかけ

 

 きっかけは、昭和12年発行の『沖縄毎日新聞』に詳細が書かれている。以下転載する。

 

  ※転載始 横濱市に本店を有するコーヒー直輸入商木村コーヒー店では東慶佐次に廿町歩のコーヒー園を経営し尚三反歩の苗圃があって六万本の苗木を養成している、同店が本県へ珈琲店を経営するに至った動機は昭和九年頃店主柴田文治氏が本県へ来遊し、今帰仁村に於ける珈琲樹生育状態を観察しその品性有料なる事を看破し、早稲田大学時代の学友だった玉城村字前川出身知念喜文氏をして今帰仁村に珈琲樹を買い占めて委嘱し既に二千五百本を購入した。一方東村慶佐次に山林二十町歩を購入しコーヒー園を計画している、最初台湾から技術者を招いてコーヒー園を経営に當たらしめたがその経営法は立木を悉く伐採し開墾をなし一坪一穴一木植を行い九町歩の植付をしたが、樹性が之に適せなかったため成績不良に終わったので昨年十一年経営法を変更し立木の儘栽植のち天のみ伐採して植付をなしたるに其の結果、苗木の活着歩合及び生育良好で尚結実期に達せるコーヒー樹をも活着し直ちに繁茂結実する状態である、同店では知念氏の外に二名の係員を設置して着々と計測実行中である、尚同店は台湾でも現在、三・一六三甲歩の面積を経営し将来七二・九八六甲歩に栽培拡張の計画をなしつつあるが本県は珈琲樹の葉さび病に対し無病地なる事、本県産珈琲の種類優秀なるに着目して現在しきりに栽培拡張を企画中である。※転載終

 

 記事は、最後にコーヒーがいかに農家にとって有利な植物であるかを記し、「コーヒーの栽培を農家の副業にすることに最適である」とまとめ、コーヒー栽培への関心をひくものとなっていた。

 

コーヒー農園を開いた理由

 

 現在のキーコーヒーの前身である木村珈琲店は、なぜ沖縄県にコーヒー農園を開こうと思ったのか。同店は1920年(大正9)横浜で創業した。1931年(昭和6)より当時日本の統治下にあった台湾に進出し、台東、嘉義の2カ所においてコーヒー農園事業を開始した。それぞれ500〜600tの収穫を目指し、開墾・植樹を進めた。

 

 その2カ所のコーヒー農園に植えつける種子を生産する拠点として1934年(昭和9)沖縄に「慶佐次珈琲栽培農場」を開設した、と同社の広報担当は話す。

 

 しかし、台湾の農園で収穫されたコーヒーは1936年(昭和11)アメリカにて高い評価を受けるまでに至ったものの、戦争の激化、終戦を経て、その台湾での2つの農園は手放し、生産も終了した。

 

 沖縄県での木村珈琲店の取り組みの結果はどうだったのであろうか。詳細を現在入手することができず、研究調査は進行中である。

 

『四季の珈琲』2019 vol.48

 

明治頃、小笠原と沖縄県で国産のコーヒー豆を生産させようと当時の政府によって試みられた。これまで日本で最初にコーヒーの木がもたらされたのは、1876年(明治9)4月に横浜港に到着し、小笠原で栽培が開始と広く知られていた。しかし、その後の調査で、実際は、前年の1875年(明治8)に、一足早く沖縄県に届き、移植されていた。つまり日本に最初にコーヒーの木が移植されたのは、沖縄県であったのだ。

 

順次調査した結果をアップしていきたいと思う。